ことばあそび【偏見】
「それは偏見だ!」というツイートをみた。
はて、偏見とは一体何なのか。
・見方が偏っている
・偏った見方
どちらの考え方でも同じことか。
AとBがこの世界にあるとしよう。
どちらもあるのに、AかBか、どちらか一方しか見ていないC君がいたら、その人は偏見を持っていると言えるだろうか。
C君はAを見ている。
それを偏見だと言う人がいる。
しかし、C君はBを知らないかもしれない。
「Aだ」と言っている人が、Bを知らなかったとき、その人を「偏見だ」と批判している人は、「この世界の人は、AもBも知っている」という、偏った見方をしていると言えないだろうか。
偏見を持たずに生きることはできない。
では、C君がBを知ったうえで、Aだと言っていたら、C君は偏見を持っていると言っていいのだろうか。
例を出した方が分かりやすい。
以下では、性の偏見について
A:男女という性のみ存在する
B:男女だけでなく他の性もある
今の時代は、Aだと考えているのは偏見になりつつあるように思える。
何をもって、それが偏っていると決めるのか。それは多数か少数かという基準かもしれない。
Bがなければ、Aは偏見にはならなかった。
今までのものとは別の概念ができたことで、「偏見」が出来上がり、勝手に偏見だと決めつけられる。
では、Bは本当に偏見ではないのか?
おそらく、Aにとっては、性に対する偏見でしかないように思える。
偏見になり得ないものに何があるのか。
一般的な常識として、1+1=2には、誰も疑いを持たないのではないか。
これが、1+1の計算におけるAであり、答えを3や5とするようなBは存在しない。
疑いを持たれ、新たな可能性のある答えが生まれた結果、偏見となってしまう。
もしかしたら、1+1=2が偏見になるかもしれないのだ。
正直なところ、「偏見」は良い使われ方をしているようには思えない。
偏見を持たないのは善、持つのは悪、みたいな感じだ。
偏っている状態を図で示してみたい。
ただ、お互いが相手のことを偏見だと考えているのだから、
均衡するのだろうか。
次に、Bが徐々に広まってきて、Aが軽くなる、つまりAだと考えている人が少なくなったら
こうなるが、今度はBに偏っている状態だ。
このとき、Bだと考える人たちは、自分達を偏見のあるグループだと思うだろうか。
私は、思わないと思う。
もともと、偏見だった考え方が偏見とされなくなって、この図になったわけだし。
ただ、やはりこの図だけ見れば、Bに偏っている。
これを偏見としないのならば、見た目が偏っているだけでは、偏見と言えないことになる。
それに、もしかしたら、③にはならずに、Aがどれだけ少なくなっても、消え去ったとしても、
Bは軽いままであり続けるのではないか。
これなら、Bがどれだけ世のなかの主流派になろうと、偏見になることはない。
性の偏見に関しては、男女以外の性を持つ人は世の中で多数派ではないが、その考えを肯定する人は多そう。
考え方も含めれば、③が正しいかもしれない。
Bが偏見と言われるようになるには、Dという新しい少数派の考え方が出て来なければならないだろう。
偏見について、善悪の考え方があると思っている。
偏見があれば悪、なければ善。
これでは、偏っていることは悪いことかのように見えてしまう。
この世界では偏っていることは許されない。
食生活では、毎日、甘いものを食べたり、野菜を取らないような、偏った生活は許されていない。
しっかり栄養を取りなさいと、医者に言われてしまうだろう。
人付き合いもそうだ。
自分と同じ種類の人間ばかりと付き合っていると、怒られてしまう気がする。
偏っていようが、それはその人の自由だ。
なぜか、それを偏見だと言われ世間から批判されることもある。
偏見なんて言葉がなくなってしまえばいいのに。
何でもかんでも偏見なんて言うんじゃないよ…。